近くまで行く予定がありましたので、ついでに行ってきました(*^_^*)
中尊寺は世界文化遺産に指定されましたので、かなり活気があるようです。
道路が新たに整備され、昔の知っている中尊寺ではありません。
こぎれいになっていますし、いろいろとお金が取られるようなシステムになっています。
地元は新たな収入源が増え、潤っているように見受けられます。
義経堂は観光ルートの外れにあるのですが、それでも切れ目なくお客さんが来ていました。
最初に断っておきますが、ワタクシメは歴史が非常に苦手です。
高校生の時に歴史の先生に分からないところを何度か聞いたことがあったのですが、何故そういうことをわざわざしなければならなかったのか、当時の人間達の考えていることがどうもよく分かりませんでした(^^;)。
義経堂にあった系図によりますと、平泉の藤原氏は鎮守府将軍の藤原秀郷から始まるようです。
その子孫に宮城県亘理の権大夫であった経清という方がおり、その経清さんと奥六郡司の阿部頼良さんの娘さんが結婚して藤原清衡さんが誕生したのが平泉の藤原氏の始まりのようです。
で、そのお孫さんが藤原秀衡ですが、この秀衡さん、若い頃に亘理の隣にある名取の高舘(たかだて)山というところに城を建てて住んでいたようなのです。
その頃は、阿部頼良さんの子供の阿部貞任さんの一族とかがその地を支配していたらしいのですが、藤原秀衡さんから見ればひいお婆さんの兄弟なので、身内になるわけです。
秀衡さんは成人して平泉へ戻り、鎮守府将軍・陸奥守として活躍するわけですが、ご存知のとおり、源義経さんが源頼朝さんから逃げるために身を寄せてきたので、庇ったわけですね。
で、秀衡さんが亡くなってから、秀衡さんの子供の泰衡さんが源頼朝さんからの命令を断り切れなくなって源義経さんを討伐したことになっているようです、表向きは(^_^;)。
その討伐された場所がまさに義経堂のある北上川に隣接する高舘(たかだち)という場所なわけでして(^^;)。
ま、世界文化遺産ともなると、聞けば答えてくれる方が近くにいるわけです。
で、聞いてみたわけですね(^^;)。
あのぉ~、この辺では「舘」を「たち」と読むんですか、それとも「たて」と読むんですか(^^;)?
そうしましたところ、ほぼ間違いなく「たて」と読むのだそうです。
つまり、高舘は「たかだて」になるのだそうで。
ただし、この義経堂のあるこの小山だけは、何故か「たかだち」と読むのだそうで...
不思議ですねぇ(^_^;)。。
説明してくれた人も頭をひねっていました(^_^)。
で、舘を「たち」と読むのは上方の方らしいのですね。
どうやら、源義経だから「たかだち」のようなのです。
藤原秀衡さん辺りだったら「たかだて」としか読みようがないようなのですねぇこれが(^^;)、。。
つうわけですから、秀衡さんが若い頃に住んでいたらしい宮城の亘理の隣にある名取の高舘は「たかだて」なのですわね。
読み方は違いますが、それは主の出身地の違いによるようなので、同じ流れにあるのではと思います(^_^;)
で、ついでですから平泉毛越寺も見てきました。
ここには僧院がたくさんあったようです。
どうやら、蝦夷の時代が終わり、大和側の支配が広がるにしたがってナウくてカッコイイ仏教色に染まっていったように思われます(^_^;)。
ひふみ神示でいうところの、仏魔がとうとうこの地方にも押し寄せたというところでしょうかねぇ(^^;)、。。